こんにちは、通販 眺めのいい生活サイト WEBマスター:世空です。
先日行った部屋の模様替えの際に出た未整理品の片づけを、ため息をつきながら行っています。
几帳面さと面倒さを両方持っているわたしなので、この作業はたいへんつらくあります。
しかも生活の未整理品は、日々の生活でどう処分してよいか、とりあえず対応を後回しにしたものがほとんどですから、今でもどう処分するか判断に迷うものが多くあり、それが山となっています。
それを丹念に一つずつ、対応を決めて、片付けていくのは、えいやっと気合と集中を切らさず頑張らねば、進みません。
・・・今日も予想以上に片付けることが出来ず、ここでも自分の処理能力の低さを感じ、凹むわたしなのでした。
話は変わりますが、未整理品の中から、エドガー・ケイシーに関する資料や読み物が出てきて、興味が高まっています。
以前からよく彼に関しての書物を、よく読んでいたのですが、未整理品から出てきたものは、より身近な内容に沿って記されているものでしたので、また新たな気持ちで読むことができました。
エドガー・ケイシーは、アメリカ人ですでに故人ですが、生前は霊能力者として一世を風靡した人でした。
主に身体の不調に関しての治癒のための言葉を多く残しており、多くの悩める人を今でさえ導いています。
信じる、信じない、関係ない、興味なしと、彼に対する万人の反応はさまざまだと思いますが、何の宗派にも属さず、霊能にも依存することのないわたしが読んでも、彼が残したものは、素晴らしいと思います。
人生との向き合い方にも多くの言葉を残していて、彼が霊能者であるかないか、問題でなく、その言葉には大切な意味合いが含まれています。
ただ他の様々な教義・思想・道徳感について言えることだと、わたしは常々確信していることがあるのですが、その教義や奇跡を知り体験するだけでは、ある意味、知らない場合より危険だと言うことです。
感動的で英知がつまった言葉や思想を、知ることだけで安心したり、またそれを信奉する集団に参加するだけで、安易に憩いを見出すことは、結局、自分の中にはそれらの言葉・思想が育たず、向上・改善にはつながりません。
「〜のように、○○がそういっているから」、ただそう考える・そうしたということでは、いつまで経っても借り物の何かを盾にしていることになります。
個人が悩みを解決、また向上を、その個人の中で達成することを目的とするなら、わたしたちは知りえたことを分かち合いながら、それを租借して、それを活用し、自分の生活としなくてはなりません。
今回、この模様替えの片付けで出てきた資料を読んで、さらにそう感じたのでした。
信者が陥りやすく、また言いにくいことではあるのですが、信奉する教義や思想を自らの身体の中で活用することなく、単に相手と狭い視野でのコミュニケーション・フィルターとして、何かにつけて、都合よく持ち出される場合があります。
わたしたち人が、神の一部であるなら、もっとまずわたしたち自身を大事にする必要があると思います。
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