「母の日」の起源となった説やモデルが、いくつかあります。
中でもアメリカ説が、一番ポピュラーなものとされています。
古代 ギリシア時代
神々の母とされるリーアに感謝する春祭りからとされています。
17世紀 イギリス
この頃、復活祭(イースター)40日前の日曜日が「Mothering Sunday」とされており、家から出稼ぎで仕事をしている人はその主人から、母親と過ごすために里帰りすることを許されるのでした。
そしてこのとき母親への贈り物に、「Mothering cake」というお菓子を用意しました。
1905年5月9日 アメリカ
この日アメリカ・フィラデルフィアで、アンナ・ジャービス女史(Anna M Jarvis)の母親が亡くなりました。
アンナは、亡き母を偲ぶため、母の命日に彼女の追悼式を開きました。その式で母ミセス・ジャービスが好きだったという白いカーネーションを捧げ、式の参加者に母の思い出として、一輪ずつ手渡しました。 この追悼式は、母ミセス・ジャービスが過労死と言われるほど苦労して、生前にアンナ姉妹を育ててくれた恩に報いる気持ちから開かれたものといわれています。
母ミセス・ジャービスは、敬虔なメソジスト派キリスト教徒で、教会で日曜学校の教師を務めました。 この日曜学校で、「母の恩の深さに人々が気付く方法を考えましょう。」と話していたところからも、追悼式での意義のヒントになったと思われます。
そしてアンナ・ジャービス女史の追悼式が噂を呼び、米国発の百貨店経営者として名を馳せた実業家のジョン・ワナメーカーの耳に入るところとなりました。 アンナ・ジャービス女史を褒めたたえ、趣旨に賛同したジョンは、1908年に、自分の経営するシアトルの百貨店で、「母の日」の催しを行いました。
この催しにおいて、アンナ・ジャービス女史の提案で、母の存命している人は、赤いカーネーションを付け、母を亡くした人は白いカーネーションを胸に付けるようになり、今日の習慣のモデルとなったといわれます。 その後、アンナ・ジャービス女史の活動で、当時の有力政治家に「母に感謝する日の制定」を訴えを行い、それがウィルソン大統領に伝わり、決議の結果、1914年に正式に祝日となりました。
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