感化され脱力感から始まった、努力の停滞から抜けるための努力として、いろいろと試行錯誤を始めました。
すみません・・・。なかなか本題に行き着けなくて。もうしばらくお付き合いください。
自分の中の自然に与えられてきた『伸び』や『はずみ』が感じられにくくなったので、それを身の内に起こす、きっかけとなるもの、原材料となるもの、またはかわりとなるものを、自分以外の外的なところも含めて、さまざなところに追求を始めたのでした。
なにか自分を奮い立たせるもの、その指針になるものを自然と探したりするようになりました。まずいつも身の内に湧き立たせるものがないといけないと思い、それを前提として探求が始まりました。
ある人は趣味に没頭したり、考えることに正攻法で取り組み哲学書を読んでみたり、何かを証明するためにより仕事に励んだりします。興味があるものに、人は惹きつけられ、活発化します。
わくわく・ドキドキすることを常に持っていて、それに取り組むことで、いつも新鮮な湧き上がる泉を、精神の内に持つことができ、失った力を取り戻し、もしくは代わりとすることができるでしょう。
そうして、自分のわくわく・ドキドキ探しが始まったのですが、その時気がついたことがありました。
たとえば興味を持とうと、話題にあがる旬の映画やテレビ番組も見るのですが、興味を持つというよりは、いつの間にかビジネスマンの視点から、社会の一般的な雑学のための、知っておくための情報として見ていることに気付いて愕然としました。これが面白いなぁという興味の対象ではなく、つまらないことでも知っておかなければならない義務感にかられて見る対象に、すぐにすり替わってしまうのでした。
そのため素直に実感して、そこから楽しむことをできなくなっていたのです。そうなると「わくわく・ドキドキ」感がありません。「わくわく・ドキドキ」感が、身の内に起こってこそ、自分の中の『泉』が湧き上がり、そして「努力」などの前向きな活動が無理やりなものとなってしまいます。
興味ではなく、社会で通用するための学習としてしまうことは、それが大人であり社会人であるということなのですが。とにかくその気付きは自分にとって、ショックだったのでした。
学習的な物事の認識は、確かに必要ですが、それとは別にわくわく・ドキドキができるものを、絶対に必要としていました。
そうして自由な気持ちで、わくわく・ドキドキできるものを探し追求しようと、いろいろな物事を眺めていると、逆に問題点が明確になってきました。それは、感情がすぐに凹みがちになることや、ヤル気にもっと満ちて時間を有効に使いたい、何か作り続ける人でいたい、生きている証を確認しながら生活したいといった欲求でした。
自分が前向きな出発をするために、これらの問題を明確にし、きちんと対処しない内は、自分の中に「わくわく」も「ドキドキ」もおこらないでしょう。
今自分が抱える問題、クリアにしなくてはならない問題は?と、自分への問いに対し、次のような答えとなったのでした。
- 精神的に弱くなっています。
- 人から受ける悪感情に知覚過敏になっています。
- 凹みやすくなっています。
わたしは何かを創ったり、物事を成すということに、たいへん喜びを感じ、多くの人がそうであるように、それを人生の目的としていますので、それらの目的を促進する「わくわく・ドキドキ」を邪魔し阻害する、これらのどっかりと自分の中に腰を据えている要因を絶対にどうにかしなくてはなりませんでした。
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