こうして頑張ることで、それなりの結果を、自分の所属する小さな世界で出し続け、どこかいい気になっていたのですが、やはり少しずつ限界を感じるようになります。
そして、その成長の『伸び』『はずみ』の力が、身の内に捕らえにくくなり始めたとき、ある良いとは言えない一つのきっかけで、脱力してしまい、ずるずると自分の中で堕落していく感覚を味わうことになりました。
そのきっかけとは、学校の知り合いだったのですが、早々に『伸び』『はずみ』の後押しを得つつも、肩の力を抜いて、がむしゃらな努力をしないという、わたしには別タイプの人との友達づきあいが発端でした。激しい競争社会の中で、諦めの内に(それが悪いことではありません)何らかの表現と行為をする人は多くいると思うのですが、その友達もそうでありました。
その頃の自分と違って、その友達は早くから自分の限界を気付き、力の及ばないところは流れるにまかせるようなスタイルで、何事にも向き合っていました。自分が勝てない世界をすでに知っていて、また勝てない勝負のある世界に、属していることを知っていました。そういう友達が発する言葉や姿勢に、何かと苦しいながらも頑張ってきたわたしは、とても冷めて達観した、大人のクールな印象を受けたのでした。
そしてその態度や認識をかっこいいものと感じてしまったわたしは、それまでのがむしゃらな努力というものから、すっと抜けてしまったのでした。
「がむしゃら」であることが、必ずしも良いとは言えませんが、「努力」は一生続けるものです。わたしの鍛錬が足りない人間性は、それまでがむしゃらに努力することで、維持されてきたのですが、その友達に感化されたとたん「がむしゃら」という方法論的なところを止めるのはまだ良いにせよ、「努力」まで止めたとは言いませんが、その姿勢の程度が甘くなってしまったのでした。
そうすると自分が楽になるんです。妙な安心感さえありました。
見渡せば、これでいいんだと納得させることのできる、都合のいいことはいっぱいありました。そうしてすぐに頑張らない状況の楽さに落ち着いてしまいました。
・・・こうして、まだまだ鍛錬の足りない精神のわたしは、頑張っていた自分が、少しずつズルズルと頑張らなくなっていった感じを、自分の中に感じるようになったのでした。
「これこそ自然なのだ。」と、勝手に、心のどこかで言い訳をするようになっていました。もちろんそれで許されて調子のいい学生の時代が、いつまでも続くわけはありません。よくある話ですが社会的にも学生という、ある意味、特権といってよい身分を失って、厳しい社会の荒波をまともに浴び始めたから、なおさらのことです。
すぐに思った通り、結果に結びつかないと、凹むようになりました。そして「頑張れないクセ」がしっかり身に付いた自分に、煮えきれない日々が、3年間ぐらい続いたのでした。
一度転がると、なかなか立ち上がれることは難しく、落ちていけば行くほど、再起が難しくなるのは、よく様々な例えにありますが、自分もそのよくある例えの洗礼をしっかり受けてしまったのでした。
盲目的に頑張ってきただけで、受ける様々な影響の中から、有意義なものを選び育てる強さと賢さを持っていなかったのです。
それでも何とか調子を取り戻し、昔自分が持っていた情熱と自身を持って、事にあたることができるようになったと思ったら、今度は、先の節で述べたように、平均的な体内のバランスや制御能力の衰えを感じ始め、同時に神が人に与えた『伸び』や『はずみ』のパワーが抜けていくのを実感したのでした。
いわゆる一般的に『年を取った』ということなのでしょう・・・。別の視点から言えば、『成熟』の始まりと言えるかもしれませんが、たいてい気休めにもなりませんね。それからは同年代のおじさんを嫌って、若いコが着るファッションを取り入れても、髪をちょっと立たせても、立派なおじさんです。たまに刹那的に甦る、若いころの気持ちも、それをずっと自分の中に保持し味わうことが出来なくなってしまいまいした。
それ以来、多くの人がそうであるように、神からの、自然からの、成長の摂理の後ろ盾を感じることの無いまま、かつて行っていた努力だけを、苦しくても続けたのでした。
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