|
今日、数ある会社の中には、たいへん素晴らしいことだと思うのですが、社員教育の一環として、「親孝行できる社員を育てよう」という姿勢を育てることを実施している会社があります。
その会社の経営者の言葉に、
「よりよい会社を作るには、親孝行の社員を採用して、
また1人でも多くの親孝行の社員を育てること。
それがお客様からも、家族からも喜ばれる会社への、一番の近道です。」
といった内容がありました。
よりよい人間性を備えた社員こそが、満足の行くサービスを提供でき、お客様に喜んで頂ける・・・。それが事業の拡大を生み、お客様にも社員にも、関係するおのおのの家族にも、誰にとってもよい会社へ成長するのです。
なるほどと、うなずける話だと思いませんか?そしてそんな会社は素敵だと思いませんか?
昔から、「孝は百行のもと」といわれるように、親に対する「感謝する気持ち」や「恩に報いる気持ち」を育てることは、よりよい人間関係を築く基本になり、そこから様々なことに広がり、そしてビジネスにおいてもよりよい結果をもたらします。
「親孝行の心」は、自分の親だけに影響するものではなく、家族以外にも広がりを見せて、職場の同僚やお客さま、お得意さまなど、自分に関係するあらゆる人への「思いやりの心」を育てることにつながります。
「思いやりの心」は、すべてのより良い人間関係の基本となるものですから、まず普段から接する親への親孝行は、素晴らしい社会生活への出発点であるといえるでしょう。
そういう良い方向へのお話ではないのですが、わたしが経験した大企業での職場では、あれだけ多くの人がいて接しながら、「さびしく感じる人」が多くいました。
何か共通の利益に向かってお互い協力し合う環境から程遠く、自分の所属する担当内だけで、うまく立ち回ろうとする人間関係だけが浮き彫りに感じられ、自分が求めるほんとうの豊かさに程遠かったのでした。お客様に心を込めて接する社員がおらず、単なる理想論となっていて、周りとの利害関係で、必死に自分の方を有利に保つためのバランスばかりに専念する人たちが多く、業務を見直すQC(品質管理)活動の中でさえ、さまざまな都合を無難な解決法と目標設定に変えて、機械的に受け入れて消化していたと思います。
全部の人がそうではありませんが、企業の中で生きるとは、そうすることがある程度、処世術として必要なのかもしれません。ですが、そのような姿勢と人間環境に、何か大きな取り返しの付かない大きな欠陥を感じ、立ち向かい自分を貫く力を持たず、意義を見出せなかったわたしは、なんの未練もなく退職しました。いま考えると、信頼していた人からも、自分の都合にいいよう、わからないように操作されていたことに気付いて、いまさら幻滅している有様です。
そのような状況の中で、「親孝行」といった道徳は、すっかり陳腐化して風化し、うわずみの道徳理念としてしまった会社の環境がいいわけもなく、社としての業績、そしてそれに関係する従業員たちの生活の豊かさが、いいものではないと思えたのも至極当然の結果なのでした。同時にいつの間にか自分もその中に取り込まれて、染められていくことに、猛烈な嫌悪感と、自分の弱さを覚えたのでした。
強くやさしくありつつ、そしてポリシーを正しく相手に伝え、コミュニケーションを生産的にすることの難しさ、そのスキルに対しての自分の稚拙さ、弱さ、また根本となる考えがしっかりと構築されていない不十分さが、すぐに自分を圧倒しました。
周りの人間を、非難しつつも、それに対抗できる何かを、自分も確かなものとして持ちえていなかったのでした。
そういった経験から、先ほどの経営者の言葉にあったように、よりよい会社作りの条件として、「親孝行の社員を採用して、また多くの親孝行の社員を育てる」ということの大切さを痛烈に感じます。
その理念の効用はもちろんですが、結果それは自分を、そして周りの人を幸せにすることだからです。幸福な社会全体というものを考えた場合、幸せは他のどこでもなく、その社会の基本構成要素である一個人それぞれの中で、幸せが花開いていなければ、ありえません。方法や考えは人ぞれぞれ違うにせよ、自分の中に、幸せというもので満たされることを願い、またそれを人生の最大のテーマにおいて、誰もが生活していると思います。
「親孝行」は、個人個人誰もが持つべき、その「幸せ」の一つの表れと言えます。
様変わりの激しい社会の中で、最初の方でお話ししましたように、「親」という定義と存在も中身が変わってきたように思います。
「孝行」の対象どころか、「害悪」の対象とされる場合もあり、悲惨な事件が跡を絶ちません。陳腐な道徳観として、自分たちの胸に据え付けるのではなく、しっかりとお互いが自分の意思で育んだものでなければ、子は親に孝行できませんし、親となった子は、さらにその子を幸せにすることはできないのです。
|